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アスリートの素顔~第2回 心優しい野性児 醍醐直幸選手(高跳)~

7月2日、神戸ユニバー記念競技場(第90回日本陸上競技選手権大会)で13年ぶり走高跳の日本記録を塗り替えた醍醐選手。日本中を驚かせたビッグジャンパーが7月13日、富士通汐留本社に現れた。スーツ姿の醍醐選手は爽やかな笑顔で、sport.fujitsu.com編集部の素人インタビューに気さくに応じてくれた。

天性の才能が開花した子供時代

スーツ姿もさわやかな醍醐選手素人記者の定番として小さいころの姿を聞いてみた。醍醐選手は4人家族の末っ子。子供のころ、周りではテレビゲームが流行っていたが、自分は外で遊ぶことが大好きで野球やサッカーを毎日やっていたという。すくすくと育ち、中学生の時にすでに180cmの長身となっていた。「本当はバスケットボールをやりたかったのですが、通っていた中学校にはバスケ部がなく、似たような感じのハンドボールを始めました。ハンドボールもジャンプすることが多く、高跳に少しは役立ったのかもしれませんが、そんなにまじめにやった感じはないです」と、高跳に出会う前の姿を現代っ子らしく語る。
そんな醍醐選手が運命の糸にひかれ徐々に陸上の世界に足を踏み入れる。ある日、バスケットのリングでダンクシュートをバンバン決めて遊んでいたところ、たまたまそれを陸上部の先生が目にしていた。「醍醐、高跳をやってみないか?」
醍醐選手の人生が、日本の走高跳の歴史が大きく変わる瞬間だった。初めての陸上大会で跳んだ高さは180cm。中学で跳んだこの記録は、当時の中学ランク10位以内に入るものだった。その後も天性の才能が順調に開花していく。高校1年の国体で2m05cm跳び4位入賞。高校1年で2m08cmまで自己記録を更新する。「その頃は、高跳の練習を一生懸命していたわけではないんです。先生に、週1回くらい見てもらう程度で、あとはサッカーばかりして遊んでいました。記録が伸びたのは、身体の成長とともに高さが上がっていっただけで、テクニックを駆使して跳んでいたわけではないです」とあっけらかんと語る。
そんな醍醐選手にもう一つの大きな出会いがやってくる。高校2年の時に選ばれたアジアジュニアの代表、その日本代表コーチが福間博樹先生(現神奈川県立横須賀高校)だった。アジアジュニア大会では2m19cm、当時の高校歴代2位の記録をマーク。これが7年後の大記録、2m33cmへの伏線となる。

苦労を重ねた大学、浪人時代

1999年に大学進学、出だしは良かった。1年の時に2m21cmを跳び、2000年シドニーオリンピックを狙えた。しかし、その後の自己ベストは2m10cm(00年)、2m19 cm(01年)、2m15cm(02年)。怪我もあって思うように記録が伸びなくなってきた。高校時代に天性の才能で跳んでいたものがすべて崩れさり、「0」になってしまったのだ。「苦しかったです。これだけ練習をしているのに結果が出ないことが一番つらかったですね」と醍醐選手は当時を振り返る。
2003年3月の大学卒業後、両親からは強く就職をすすめられたが、それでも自分には高跳しかないという思いから、アルバイトをしながら競技を続ける決心をした。練習方法も変えた。それまでは自己流のところもあったが、もう一度記録への挑戦をするために、アジアジュニア大会で一緒だった福間先生の門を叩いた。ハードな浪人生活が始まる。アルバイトは朝6時にスタート。近所のスポーツクラブで清掃、午後は横須賀にいる福間先生のところで練習という日々だった。月給は5万円くらい。練習にいく電車賃もままならないなか、競技仲間や友達からの激励に支えられ、練習を続ける。そして、これまでなかなか跳べなかった自己ベストの2m21cmが再び跳べるようになった。

いよいよ日本選手権のビッグジャンプ

2006年4月に富士通に入社した醍醐選手は、安定した環境で競技に集中できるようになった。「今までひとりでやってきたので、最初はうまく溶け込めるかどうか自信がなかったのですが、陸上部の雰囲気は明るくてすんなり入れました。同年代の堀籠選手(400m)などを中心によく情報交換をします」と新しい環境にもすぐに順応した。
春から行われた大会で、ことごとく優勝を重ね、日本一をかけた日本選手権に臨む。「浪人時代に、どういう練習をしたら、どのくらい跳べるかわかってきました。身体能力だけで戦い続けるのは無理で、自分の身体の状態、メンタルなコンディションをコントロールした練習で自分を高めていかないといけないと悟ったことが自信になっています」と一回り大きくなった醍醐選手は日本記録更新を胸に秘め、地下鉄で神戸ユニバー記念競技場に向かった。「朝まで降っていた雨があがり、青空になったのを見て、今日はいけると何かを確信しました」と記録更新を感じていたことを話してくれた。
7月2日午後2時30分、いよいよ競技が始まった。2m10cmからスタートした醍醐選手は2m15cm、21cmと余裕をもって一回でクリア。「前日までの雨、助走の練習が十分にできなかったので試合で調整しながら跳びました」と試合後のコメントにあったように、続く2m24cmからは3回目の跳躍に照準を合わせた。2m27cm、30cmも行き詰まる展開のなか、3回目で成功。いよいよ、その瞬間がやってくる。「2m30cmが跳べればあとは、流れのなかで33cmは跳べると思っていました」と語ったように、醍醐選手はリラックスしてバーに向かった。1回目、2回目と失敗。フィールドの芝に仰向けになって気持ちを整える。「仰向けになっていると、空から、地面から、会場のお客様からの力をもらえるんです」と野性児を思わせる感性と、すべてを跳躍にもっていく精神力の強さを感じる。「2回目はお客さんに拍手をリクエストしなかったんです。勝負をかける3回目にお客さんのパワーもマックスに持っていきたかったから」とのんびりとした性格と裏腹に、周りのものすべてを自分の味方する本能的なものを持っている。
日本新記録をかけた3回目の跳躍。観衆からの大きな拍手に押されるように、醍醐選手が助走をはじめた。拍手のテンポが早まるとともに、助走のスピードをあげ、踏み切った。きれいな三日月型を描いて、バーを越えていく。13年ぶりに日本記録が誕生した瞬間だ。会場からの大歓声に身体いっぱいに応える醍醐選手は晴れやかだった。「恩師の福間先生に電話で報告したら、『これでスタートラインに立てたな』と言われました」と醍醐選手は復活を実感した。
また、記録を支えた富士通陸上競技部の同僚、江戸選手の存在も大きい。「同じ競技で、もうひとりのパートナーとして江戸君がいてとても助かります。踏み切りの位置などをチェックしてもらえて、次の跳躍のときに調整できる良きアドバイザーなんです。江戸君は後輩で、力もある選手なので今後も上を目指して一緒に頑張っていきたい」と語り、今の富士通陸上部のチーム編成も今回の記録の遠因になっていることを裏付けた。

日本新記録樹立

「やっと同期の2人に追いついて、これからはメダルと記録を狙っていきます」。同期の2人とは大学時代に同じゼミで学んでいた末續選手(短距離)と、よく食事をするという澤野選手(棒高跳)。「身近な2人が世界への道を歩んでいるのを見て、とても力になりました。彼らのお蔭で今の自分がいるのだと思います。これから一緒に世界で戦うのが楽しみです」と目線はもう世界に向かっている。
「12月のアジア大会では金メダルと2m35cmを狙います」ときっぱり宣言した。「2m30cmをコンスタントに跳べれば世界で十分戦えると思います。来年は大阪で世界選手権が開催され、お客様の声援でいろいろな種目で高記録がでると思います。僕は大阪でも勝って、北京のオリンピックでメダルをとれるようにこれからも跳んでいきたい」と世界での活躍を熱く語った。

[後記]
高跳しかとりえがないダメダメ人間と自分を表現する醍醐選手。しかし、数回あっただけでもこの選手はずっと応援したくなる雰囲気をもっている。きっとみんなに愛され、愛された分だけ応援したくれた人に自然と恩返しをしている綺麗な心をもっているからだと思う。
日本記録を樹立し、早速世界にチャレンジするため、7月中旬、醍醐選手はヨーロッパに向けて旅立った。