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アスリートの素顔
今でも破られることのない箱根駅伝2区の区間記録保持者、三代直樹。あれから8年経った今、当時と同じく、キャプテンとしてチームを引っ張る。苦しんでいた故障も回復し、キャプテンに明るい笑顔が戻ってきた。30歳となった今、三代に改めて、陸上人生を振り返ってもらった。
駅伝での達成感に魅せられた
幼い頃から、体を動かすのが好きだった三代が、中学生の時に、はまっていたのがテニスであった。「高校に行ってもテニスがしたいな」と思っていた三代の心を動かしたのが、中学2年生の時から、参加していた駅伝だった。「陸上部の助っ人として走っていました。ちょうど2年生の時に、駅伝で優勝して、その時のうれしさが忘れられませんでした」。達成感にすっかり魅せられてしまった三代の駅伝に対する思い入れは、この頃から生まれ始めていた。「個人のレースとは違い、チームを背負う責任感がのしかかってきます。その分、チームで戦い抜けた時は、1人で走る時よりずっと嬉しい」と感じていた。
高校に入って、本格的に陸上を始めた三代は、順調に記録を伸ばし、「県では負けないレベルになって」いた。しかし、全国にその名を知らしめるまでには、少し時間を要した。実は、三代が選んだのは、いわゆる強豪校ではなかった。その理由は「すごく強い高校に行ってしまうと、もみ合いになって、つぶされてしまう可能性があるかもしれない」と思ったからだ。実際、この高校時代に自分のスタイルを築き上げ、3年生のインターハイでは5番に、そして高校最後の国体では優勝を遂げるまでの選手へと成長していくのである。
その後、実業団、大学から多数オファーをもらうも、最終的に順天堂大学を選ぶことにする。「実業団の監督さんとかなりお話をさせていただきましたが、やはり箱根(駅伝)を走りたいという気持ちが強かった」。その箱根を走るにあたり、地元の先生方に相談をした。「結構、順大卒の先生がいらしたんです。厳しい面も聞きましたが、順大でやりたい」と心に決めた。
順大進学後も、三代は順調に記録を伸ばしていく。その一番の理由は「(故障が原因で)1ヶ月単位で休むことがなかった」ためだ。つまり、三代は故障とは無縁の競技生活を送っていたことになる。「本当に両親に感謝しなければいけませんね」と三代の謙虚な姿が言葉から垣間見られる。一方で、常に高い目標に向かう強い意志、最高の舞台でいかんなく力を発揮できる驚異的な集中力も同時に見られた。そして、3年生の時には、負けたくない、負けることが許されない くらいまでに成長する。その三代が世界と初めて激突したのが、1997年のユニバーシアードだった。
5,000m、10,000mの延長にマラソンがある
「順大の時は、マラソンランナーを作るような練習」ではなかった。「質を重視した練習で、トラックでのスピードトレーニング、インターバルトレーニングを中心にやっていました。5,000m、10,000mの延長にマラソンがあるという考えがありました」。しかし、このスピードが今の富士通での強力な武器のひとつとなる。
1997年のユニバーシアードも、この5,000m、10,000mで世界と勝負したものの、結果は満足いくものではなかった。「学生の世界一を決める大会で、世界を肌で感じられたのはよかった。ただ、ともにメダルに届かなかったし、10,000mでは思い通りの走りが全くできなかった」のだ。2年後、その雪辱を果たすことになる。
大学最終学年をキャプテンとして迎えた。「一番自分の力が充実していた」と語る三代が、快挙を成し遂げる。大学進学の決め手となった箱根駅伝で、当時「決して破られることがないと思われていた渡辺康幸さんの2区の区間記録」を塗り替える素晴らしい走りを見せる。
三代は2年生の時から“華の区間”と言われる2区を任されていた。そのため2区を走ることに対しては「気負いはありませんでした」。むしろ「4年間やっていたことをすべて出せば、結果はついてくる」と信じていた。
しかし三代は「区間記録は狙ってはいました。ただ、チームに勢いをつけられるように、トップに立つことだけを意識していた」と話すとおり、個人よりもチームを第一に考えていたのだ。このチームに対する思いが、三代の区間新記録樹立(1時間06分46秒)の大きな力となった。
「20km辺りで沿道のお客さんから『区間新記録が狙えるよ』と声をかけていただいたんです。自分でも時計を見て、タイムに驚いていました」。その当時ライバルと言われていた藤田敦史にも「仮に2区を走っていても、勝てなかったでしょうね」と言わしめるほど素晴らしい走りだった。三代はその言葉に対して、「一緒に走ったわけではないので、何とも言えませんが、もし走ったら、面白いレース展開になっていたでしょうね」と当時を思い出したかのように、少し遠い目をして語った。
今でも破られることのない記録は、本人が望んでいたとおり、チームに勢いをつけ、総合優勝へとつながった。「4年間の集大成という意味でもいい大会」になった。
高橋さんの強さに惹かれました
「大学と同じ環境でできる」と感じた富士通へ1999年4月に入社。そこには三代が尊敬して止まない先輩がいた。「高橋健一さんに学生の頃から憧れていました。福嶋監督もおっしゃっていましたが、『ここまで強い選手はいない』と感じる存在でした」。さらにライバルの藤田も同じく富士通に入社したほか、最強のメンバーが揃っていた。
そこでの練習は「常識的には考えられない距離」を走り、「体が慣れるまではきつい」ものだった。しかし、雪辱を誓った1999年のユニバーシアードでは、5,000m、10,000mともに、世界で3本の指に入る結果を残せるほど、力をつけていた。ただ、当の本人は「あと一歩のところまで行きましたが、経験の差がその一歩の差になってしまいました。もっとタフにならないと世界では勝てない」と改めて、実感することになった。
いよいよこれから、という三代に、ここから悲劇が起きる。「若いうちは翌日には回復できた疲れが徐々にとれなくなってきました。今まで怪我などに泣かされなかった分、少しの無理が重なり、体のあちこちが痛くなり始めました」。
この頃の三代は「精神的にもきつかったですし、ポイント練習で走れなかったのが何よりも辛かった」と感じていた。「学生時代は故障がなかったので、ちょっと休めば治るな」と思っていた。さらに強くなるためには、「練習をしなければと思い、無理をしてしまいました。例えば、藤田の練習量だったり、高橋さんのように、練習に前向きに取り組む姿勢だったりを横で見ていたので、自分を見失うくらい練習をしてしまいました」。歯止めが利かなくなってしまった。しかし、徐々に自分の体を知り、どこまでやっても大丈夫なのか、休んだほうがいいのか、という感覚がつかめるまでになった。

自分の走りを見せたい
今年で30歳を迎えた三代。怪我を回復させつつあるキャプテンは、夏合宿でチームの先頭に立って走り、元気な姿を見せていた。まずは「駅伝で頑張る」ことが目標だ。「もう一度大きな舞台で、自分の元気な姿、トップで走っているような姿を見てほしい」という願いがあるからだ。実際、チームも駅伝での優勝を狙っていて、「その一員になれたらいい」と思っている。
「終わった後の達成感、充実感が気持ちいいんです」と陸上の魅力を語る三代の原点は、やはり「駅伝での優勝」なのだ。中学2年生で出遭った陸上の魅力が、三代から消えうせる日が来るのは想像しがたい。「何より陸上が好き」なのだ。

[後記]
夏合宿の時に滞在したホテルで、順大の同期と遭遇した三代選手。「この歳で続けている仲間がいるのは励みになります」と語っていた。まだ現役で走りたいと思う彼が、もう一度「三代直樹、ここにあり」という素晴らしい走りを見せてくれることを願って止まない。
記:長富 怜子


