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アスリートの素顔
今回の素顔のアスリートは、2006年9月28日に引退を発表した土江寛裕(32)のインタビューをお届けします。現役生活を終えた今、土江選手の陸上生活、富士通で過ごした10年を改めて振り返ってもらったほか、今後の陸上普及への思いを語っていただきました。
[インタビューア:長富 怜子]
陸上は、やっていて楽しくない
小学校2年生のときに、陸上を始められましたが、そんなに気乗りではなかったそうですね。
そうです。親父(良吉)が陸上選手で、平田陸上教室を始めたんです。親父は「陸上以外スポーツじゃない」という勢いだったので、「野球やりたい」と言ったら、家にいれてもらえなくて…。「やってもいいけど、飯食わさないぞ」と言われ、「じゃあ、走る」と言って、走り始めたんです。

野球をやりたいという気持ちがあった、ということは、勉強よりも、スポーツへの関心のほうが高かったのでしょうか。
やはりスポーツは楽しいですから、勉強でどうこうしようと考えたことはなかったですね。ただ、ぶっちゃけ、走ること自体は楽しみがない。でも、記録があがっていくと、楽しいとなる。自分が進歩していくのが、数字でしっかり見えてくるというのが面白いですよね。
続けられたということは、数字がしっかり見えていた、ということだと思いますが、ほかの子たちよりも足が速かったですか?
僕の小学校(平田小学校)はマンモス校で、結構速い子がたくさんいたんですよ。リレーの全国大会が、僕が5年生のときに始まったんですが、その全国大会(第1回全国少年少女リレー競走大会。現全国小学生陸上)に僕の小学校が出たんです。その当時、僕は、学校で5番目くらいだったんですよ。5番目とか、4番目とか、ギリギリにところで、走れるか、走れないかという、熾烈な争いをしていたんです。その結果、僕は走ることができて、すっかり味を占めてしまいました。
オリンピックに出るんだ!
五輪に出場できるくらいの選手になると、よく文集に「オリンピックに出たい」と掲げることがあると思うのですが、土江さんはいかがでしたか。
僕は「オリンピックに出ます」というか、「出るんだ!」とか書いていました。単純に間違えて書いたのかも知れませんが。
「陸上で頂点を目指す」というのはハッキリとしていましたか?
いや、ハッキリとは…。でも出たいとは思っていましたよ。小学生のとき、坂本さんという、ロサンゼルスオリンピックの競泳種目に出場された方が、目の前で泳いでくれて。速いかどうかも分からないですが、「これがオリンピック出た人なんだな」と。ロサンゼルスオリンピックの代表だったんですが、「この人が日本代表、オリンピック選手なんだ」と思って。で、僕もそうなりたいなと思っていました。あんなふうになりたいなと。
実際に見ると違いますか?
見ると実感がわいてきますよね。テレビの向こうの世界って、結局、異次元じゃないですか。自分のところと繋がっているとは思えない。目の前で見たら、違いますよね。
高校の時も青戸(慎司)さんって、バルセロナオリンピックの代表の方と一緒に走って、あぁ出たいなと。最初は見るだけだったんですが、段々一緒に走れるようになって、実際に出られた、という感じですね。
今、いろんな地方に行って、陸上教室をする一番の理由はそこにあって、結局、子どもたちにとっては、走り方よりも、オリンピック出た人が目の前で一緒に走るというのが一番インパクトがある。僕よりも、陸上教室の先生がいたら、その方たちのほうがいっぱい分かっていると思うんです。もう、そんな走りはできないですけど、同じようにインパクトが与えられたらって思います。今後、富士通の選手にはそういうことを積極的にやってほしいですね。

アトランタ五輪への切符は、富士通入社への切符
1996年のアトランタ五輪で、念願の五輪出場を果たしますが、そのときの感想は?
アトランタのときは行くだけでした。出るだけが目標で。日の丸をつけたのは、ユニバーシアードではありましたが、それは学生の大会でのことですので、五輪という舞台でいきなり、日の丸をつけて、どうやって戦っていいのかも分からず、そもそも戦う場所という感覚がありませんでした。
とりあえず「オリンピックに行ってみる」という感じだったのでしょうか。
そうですね。やはり英語も全くゼロでしたし、時差もくらったことが今までになかったので…。昼眠くて、夜起きているというのが2週間くらい続いてしまって、走っても動かないし、だんだん試合は迫ってくるし、食べ物はすごく太るんですよ。体重がどんどん増えてしまって、「このままで走れるの?」という体で、100mは突っ込んでいきました。そしたら10秒5もかかってしまい、実力を発揮できませんでした。
それでも、リレーの前には何とか絞ったのですが、バトンパスで失敗して。本当にその瞬間の状況に対応するのに精一杯で、訳が分からないまま、気づいたら帰りの飛行機にいた、という感じです。
だからこそ、次の4年後をとりたかったか?
4年後の五輪もそうですが、その翌年、富士通に入れたのはオリンピックに出たからなんです。最初、僕、とってもらえるか、微妙だったんですよ。「オリンピックに出られなければ入れない」と、木内監督(現総監督)から言われて。オリンピックに行けないと入れないレベルだったんですよ。
すごく高いハードルですね。
その時の富士通は、伊東(浩司)さんと苅部(俊二)さんをはじめ、ほかにも速い方がたくさんいらっしゃって、ナショナルチームのリレーメンバーの半分以上を占めることがしょっちゅうだったんです。
僕は、ユニバーシアードに3年生のときに出たんですけど、インパクトがない。全日本インカレ3位で、ユニバーシアードに出たんで、僕個人としては、レベルの高い位置にいなかったんです。大学4年のときに、オリンピックでも出れば、取ってもらえるかなという感じで。10秒34がA標準(アトランタ五輪出場のための参加標準記録)で、10秒33でオリンピックに出られて。一発勝負の日本選手権で、それまで10秒47という記録(が自己記録)で、10秒33にバコッて記録がのびたんです。いつもそうなんですが、ギリギリなんです。しかもギリギリアウトではなく、セーフなところが、運でやっているなと思います。
富士通に入社されて、実際にナショナルチームレベルの選手と練習することになりますが、そんなそうそうたるメンバーから、どういうことを学んできましたか?
学ぶ、というよりもあこがれているだけでした。未だにもう、神様のような人でしたから。
あこがれの先輩を横にしつつも、戦う必要がありますよね?
どうにかついて行こう、という感じでしたね。
挫折を味わったり、ということはありましたか?
ないんです。挫折のようなことを忘れてしまうんです。「うわ、しんどいな」ということもすぐに忘れてしまうんです。
シドニー五輪(への出場に)、失敗のときから引退を考えていた
小学生のころから、ギリギリで滑り込んだという話がよく出てきますが、シドニーの場合はどうだったのでしょうか。
南部記念で、シドニーへのラスト1枚を争ったのですが、失敗して、逃してしまいました。予選で自己ベストを更新したのですが、決勝で小島(茂之)という、一時富士通にいた後輩にもっていかれました。1999年のセビリアの世界選手権にもに出られなかったんで、その2年は、空白の2年でした。
2年間世界レベルの大会に出られなくて、シドニー五輪の時点で26歳という年齢を考えると、引退のことも頭を過ぎったかと思いますが、その先のアテネまで自分をもっていけた強さとは?
在外研修で、シドニーにいたんですよ。向こうで勉強させてもらっていて、オーストラリアの代表選手と一緒に合宿に参加していたんです。シドニーオリンピックが始まったら、日本選手のドライバーとか、雑用をやっていたのですが、「試合は見せてくれ」と言って、試合のチケットを買って、スタンドで見ていたんです。そのときに、スタンドで4継(4×100mリレー)を見ていて、1走の川畑がケガをして、小島が走ったのですが、彼は1走要員(スタート型)というわけではないので、誰かスタート型の人がいれば、というときに、僕がスタンドにいて…。「俺、走れるのにな」と思って、スタンドで見ていました。小島くんがしっかり仕事をこなしましたが、やはりスタンドで走れる状態で、見ているときに、「柵の手前にいたらダメだな」と思いました。それが翌年、もう一回内側に入ろうと思ったのが、一番の原動力ですね。
帰ってから、死にものぐるいでトレーニングを始めた感じなので。
再び、五輪へのチケットをアテネで手にしますけど、そのときの感想は?
なぜか「絶対に出られる」という自信がありました。スタートする直前までは、異常な自信があって、本当はもっとギリギリではないところで、代表に入る予定だったのですが、結果的にギリギリになってしました。でも「つかめてよかったな」と思いました。
どちらかというと、ほっとした、という感じですか?
ほっとした、というのもありますね。

アトランタ五輪のときは、訳が分からないまま帰国された、とのことでしたが、アテネ五輪のときはどうでしたか?
アテネの場合は、最初から出る自信がありましたし、出てどうするかというのを考えていたました。なので、出るときは、全く違う心構えで臨めました。やはりその間に、いろんな世界大会も経験しましたし、外国の選手を見て、ライバルだと考えられるようになったのが、大きいです。最初から「かなわないや」というのと、「大したことない、とまではいかないまでも、勝ち目がある」というのでは全く違いますからね。アテネのときは、そういう気持ちでやっていました。
あと一歩までいった4継ですが、3本の指に入れると思いましたか?
予選の時に「落ちた!」と思ったんです。3着+2の「2」で残れたのですが、ぎりぎりで通過したのにはかなり貢献したと思います。予選のスタートが「フライングだな」と思ったのですが、ものすごくいいタイムで反応していたので、止まらなかったんですよ。ただ、決勝のときには、大きなミスをしてしまったのですが…。
とんでもないミスといっても、世界の4番まで行けた、というのは大きいと思いますが、世界と戦うために、つまりメダルを取るためには何が必要だと思いますか?
もう一回原点に帰ることが大事ですね。やはり、リレーで強くなってきましたので。日本のスプリント自体も。100mのタイムで、10秒3とか、2といった選手しかいないときには、バトンをすごく極めて、世界と戦えるようにしてきました。しかし、10秒0とかが2~3人いるようになってくると、今度は個人でその選手が活躍できるようになってくるので、どうしてもバトンに割く時間が少なくなってきているんです。
正直、今回(2年前)のメンバーなら、100%メダルが取れたと思っているんです。あとは色にこだわることまでできたと思うんですよ。そこを個人の力重視になりすぎているなと感じています。それを今の短距離のレベルで、もっと原点に立ち返って、まずはリレーでメダルをとる、ということがプライオリティとして、もっと高くなれば、すぐにでもとれると思います。
伊東さんと苅部さんは神様と仏様
富士通に入社してよかったな、と思えたことは?
前にもお話しましたが、僕、本当にギリギリで拾ってもらったんです。オリンピックに出られて、入社できたので。しかも、その後に、大学院に行きたかったので、最初から富士通の契約社員で、勉強できる環境に置いていただけました。その代わりに最初5年間くらい、IDカードがなくて、会社の入り方が分からなかったんですけどね。
伊東さんや苅部さんといった素晴らしい先輩がいる富士通に籍を置き、さらにはナショナルチームにも初めて選ばれました。その恵まれた環境で、しかも大学院で勉強しながら、走れたんで、本当に感謝しています。ただ経験的にやっているんじゃなくて、科学的な方法だとか、動き方とか、自分なりに勉強する、創造する下地ができるチャンスんもらえたのは大きいですから。
いろいろな分析をやっていかないとどうやったら一番いいのかというところの根拠を持てないんですよ。感じでこのくらいなのでは、というわけではなくて、物理的にどうやったらいいとか、そういうことが勉強しながらできたのがよくて。さらに、オーストラリアに2年行く(1999年から2年間)というのも、すんなり了解してもらえたし。これだけ手厚く、やってもらえたのは僕だけじゃないですか。

でもそれだけの結果を出していらっしゃいますよね。
いや、そうですかね。どうしても伊東さんと苅部さんが前にいらっしゃって、あそこまで行かないと評価してもらえないんで。今の選手はたぶん、それを知らないんですよ。両方の選手を知っている人は一人もいないんですよ。
二人の存在は大きいですよね。
それはもう、神様と仏様ですからね。本当ですよ。一緒に合宿できるだけでも、ものすごく勉強になりましたから。
オーラも違っているとか。
そうですね。あと練習の取り組み方とか、試合にしてもそうだし、トレーニングにしても、本当に完全に一人。自分が選手で自分がコーチでみたいな感じなんですよ。僕の原点というか、理想になっているのは、伊東さんと苅部さん。
先ほど、「最初から契約社員で」というお話がありましたが、職場で、社員のみなさんとの接点がなかったことについては、どのように感じられていますか。
いまさらなんですが、会社の中にいて、会社の仲間として、応援してもらえるとだいぶ違ったと思うんですね。会社のみなさんが、自分たちの代表として出ている、という気持ちになってもらえるのが、実業団スタイルの一番いいところじゃないですか。富士通をつけて走るのは、好きなんですが、実際どんな仕事をしているのか分からなくて…。会社が大変だった時期も、中で見ているわけではなくて、外で報道されているものしか知らないで、どれだけの人が、どれだけしんどい思いをしているのか知らなかった。
ただ、走ることに集中できるだけのことをしていただいたので、これだけの結果を出すことができたんでしょうけどね。本当はそうじゃなかったほうがよかったのかも、と思うこともありました。
富士通内では、「富士通の土江選手」という認識が広がっていましたよ。
それは嬉しいですね。全国ではないものの、支社の方が応援にかけつけてくださったこともあって、それを励みに頑張ることもできました。

土江選手をいじるのは、陸上界の常識 !?
富士通の選手以外で、試合を通じて、国内外で面白い交流があったりってしまいますか?
あまりほかの国の選手との交流ってないですね。いつも、朝原(宣治)、小坂田(淳)とつるんでいたから。為末(大)や、最初のころは、井上悟さんとか。リレーメンバーで、一緒にいたんですよ。
為末選手のサイトで、「為末選手が、土江選手をいじるのは、陸上界の常識」のようなことが書かれていましたが。
今も(早稲田大学の学生たちに)いじられていたでしょ?
話しても差し支えないエピソードってありますか?
よく山梨で直前合宿を行うんですが、「何もないので、買い物をしに八王子まで行こう」ということで、朝原、小坂田、為末の4人で、車で降りていって、ちょっと遅れそうだな、というときに八王子を出たんです。そしたら、そのときに限って、沢木先生がいらっしゃっていました。食事のあと、ミーティングとなっていたのですが、時間を見たら、ギリギリで。また、道が混むんですよ。僕がドライバーで、1人焦っていて…。あと3人は「大丈夫だよ、ツッチー。堂々と入ればいいんだよ」みたいなことを言っていたんです。ホテルに着いて、食事の10分前くらいで、ギリギリ間に合いました。そのときに、3人から「先に行ってよ」と言われたんです。当然、「何だ土江!」となるじゃないですか。そのすきに3人がスススっと入って行って…。ひどいですよね。それをまた、高野さんも喜んでしまって、4人いるのを知っているのに「土江、土江…」と言うんです。わざと沢木さんに聞こえるように。

たしかにひどいですが、土江さんのキャラクター、親しみやすさが感じられるエピソードでもありますよね。
そうですね...。セカンドキャリアは、イメチェンしなきゃやっていけないでしょうけどね。
それから土江さんらしいエピソードといえば、涙をよく流されるということもよく聞きますが、一番泣けたのは?
2004年の日本選手権だと思います。ただ、涙腺がもろいので、いろんなところで泣いていますね。さっきの写真(大きなパネルを早大生からプレゼントされる)も大半が泣いていましたから。
優柔不断なので、最初に宣言した
引退の発表をシーズン中にしたのはなぜですか?
あまりいいことではないと思ったのですが、自分でいつもやることが「最初に宣言すること」なんですよ。オリンピック出るときもそうなんですが、「これします」ということを予め言っておかないと、すぐに優柔不断なので、やっぱり…となってしまうんです。
逆に、優柔不断でやめるということができなかったので、ここまで引っ張ってきてしまった、というところが大きいので。それをはっきり、選手をしない、というのを自分で認識するためにも、あえてそうしました。
ただ、最初、自分のホームページで書いたら、問い合わせが殺到してしまいました。
第一線で活躍しているからこそ、反響がすごかったと思いますが、実際に引退を決めたのはいつですか?
引退を意識したのは、シドニーに失敗(2000年のシドニー五輪に選ばれなかった)ときからです。翌年からは日の丸に入れなかったら即引退しようと。その時に26歳だったので。20代前半などでやめる選手が大半でしたので。
パリが決まった時点で(2003年の世界陸上)、アテネ(2004年の五輪の年の現役続行が決まるわけなのですが、その次があるか、と言われたら、オリンピック周期でものを考えますので、「北京が意識できるか」と言われると、意識できなかったので、アテネで終わりと考えていました。
それが、アテネで4番(4継)という結果になってしまった。ぎりぎりメダルを逃したんですよ。やめるに、やめられないと思い、帰りの飛行機の中で、木内総監督に、「申し訳ないですけど、来年もやらせてください」と話しました。笑ってましたけどね。
アテネ前に、監督には言っていたのですか?
引退する、ということは言っていなかったかもしれませんが、自分の中では、日本選手権のときなど、「これを失敗したら、終わりだ」と思っていたので。それまでも「これが最後だ」と思いつつも、延ばし延ばしやってきたんですけどね。特に去年は、それなりに代表になれるレースに残っていたのですが、今年は試合にも出られなかったので、正式に引退することにしました。
「自分は何で会社に帰属しているのか?」という理由まで考えるようになってしまうと、やはり、はっきりとしないといけないなと思いました。ほかの多くの選手は、やめていかざるを得ない選手もいて、いろんなレベルの選手がいて、自分の満足がいくまでやっていける選手というのが、富士通だけでなく、企業に属せない選手もいっぱいいて。なのに僕は競技で結果を残せていないのにもかかわらず、競技者として、手厚く過保護に暮らしているという自分の置かれた状況に、納得できなくなってきた、というのがありました。なので、あえて「やめます」と言いました。

実際に引退を決断することは辛くなかったですか?
引退するのは、「もう走れなくなるのが寂しいな」という思いはあるものの、「やり残したことがあるか?」と言われれば、メダルを取れなかったことはありますが、「今そこまでいけるか」といわれたら、自信はないです。はっきり言って、陸上の選手としてやれることはやり尽くしたな、というのがあるんですよ。
寂しいのですが、それがやめなければいけなくて、どうしてもやりたくてやめなければいけないのではなく、しっかりとやり切って、やめるということを考えたら、辛いということはないですね。
達成感がある、ということですね。
はい。そうですね。
2006年10月22日の田島記念がラストレースでしたが、そこに決めた理由は?
地元に近い、というのがありました。本当は、全日本実業団の駅伝でやめる予定だったのです。あるとき「田島にはでないんですか?」というのを山口陸上競技協会の方に言われて、「全日本でやめるので、その先は選手ではありませんね」と言ったんです。その陸連の方がしばらく考えてから、「最後を田島にしてくれ」と。やはりそういうことを言ってくださるところなら、僕もうれしいですし、向こうも喜んでくれるのなら、「僕が選手として、最後に役に立てるところかな」と思いましたので、そこを最後にしようと決めました。
実際行ってみたら、ものすごく歓迎していただきました。なんか「田島記念」ではなく、「土江記念」ではないか、というくらいの、申し訳ないと思うほどの試合になりました。
あと、母親も見に来てくれたんです。五輪も世界選手権も呼んでいなかったのですが、「もう見られないから来て!」と言って来てもらいました。母親方の祖父は山口県の出身ですし、山口県は、僕の祖先のいる場所ですし、母もそちらのほうの人間なので、いきやすいというのもありました。


究極的にコーチはいらなくなる
引退されて、これから城西大学で教えることになりますが、今までの経験を学生たちにどのように伝えていきたいですか?
僕は、究極的にコーチはいらなくなる、という考えなんですよ。コーチにいろいろ教えてもらおう、というスタンスだとうまくいかなくて。自分にもコーチがいたんですが、何でも教えてもらおうとは思っていなかったんです。コーチがしてくれることって、どちらかというと、アイデアや発想が生まれる糸口をもらって、そこからヒモをたぐっていくような感じなんですよね。自分もそうしなくちゃいけないかなと思っていて。
今、あえて混乱してもいいから、いろんな練習をさせているんです。その中で、「これは自分の走りに活かせる!」と思ったものを吸収してもらって、それを自分なり料理して、新しいやり方とか、自分のイメージしやすい方法とかを作っていく、という自動化された作業をやっていくというのが一番いいスタイルじゃないか、と思っています。
いろんな糸口になりそうなことをどんどん、どんどんやらせようとしているんですけどね。ずっと、みんな、首かしげっぱなしです。

混乱している証拠ですよね。
やっぱり混乱はしなくちゃいけない。一発で分かるはずがない。それをどうやって作ったか完璧に自分のものにしていく、という作業の繰り返しだと思うんですけどね。
最近の学生って、なかなか自分で考えることをしないで、言われたことをそのまま吸収するのみになりがちだと思いますが。
その選手にコーチがぴったりついて、その選手のために、アレンジした練習ができればいいかもしれないですけど、それでは頭打ちが近いですよね。自分の体をコントロールできるのは、やっぱり自分自身ですから。コーチがこういうふうに動け、と言っても、コーチが意図する動きと、実際の動きでズレが生じるし。
混乱だけにとどまらず、選手たちは結果が出ず、焦りが出てきたりしませんか?
実際、城西大学の学生たちは、少しずつ自分たちで考えるようになってきています。いい傾向かなと思います。たぶん、みんな一回はダメになると思うんですが、うまくはまれば、そういう人が一人でもいればな、と。あとは、どうやって、選手が我慢できるかですよね。ま、僕自身がそうですけど。
そういうときに、ついつい手を出したくなってしまうのでは?
そう、それで、どんどん話すんですよ。当然、僕も与えないというわけではなくて、与えるものは与えて、自分なりにその中で、いいものをピックアップできるかだと思うので。その分、センスですごく差が出てくると思うんです。すごくいいポテンシャルを持った体を持っていても、コントロールするところの創造力というか、発想する力、自分でアレンジする力がないと、一歩上のレベルにあがれないし、一歩上がったときに、またそれができなくなってしまう。結構そういう選手っていると思うんですよ。若いときに、ズドンと速いタイムで走るんだけど、長年それが続かない。
僕のように、おっさんになるまで走っていた選手っていうのは、誰か一人のコーチにぴったりついて、練習するというスタイルの選手って少ないんですよ。伊東さんもそうですし、苅部さんも、朝原も、為末も、小坂田も、みんなそうなんですけど、いろんな人からいろんなことを聞いて、それを自分の体をどうやってコントロールしていけばいいのか、というのを自分であぶり出して、解決して、ということをやっていっているんで。ただうまく一発だけ走らせるんだったら、手取り足取りやればいいんでしょうけど、コンスタントに、息の長い選手にはそうはいかないでしょうね。
ただ、学生となると、違う方法なのかと。そこは矛盾しているというか、ジレンマなんですけどね。特に、城西大では、いい選手が4年生にいっぱいいて、今シーズンに結果を残さなければならない、という選手にはどうやったらいいのか、とかいろいろと悩むんですけどね。
陸上を盛り上げるものであれば、何でもやりたい
今は、大学で教えていらっしゃいますけど、今後どういったところを目指していきたいと考えていますか?
まだよく分からないというのが正直なところですね。陸上自体を盛り上げるものであれば、何でもやっていきたいなと思うんですけど。たとえば、競技会。出雲陸上とか、僕が口出ししてやっているんですけど、そういうので、陸上を続けようという若い選手が増えるのも嬉しいし、速い選手が、一段階レベルが上がってくれるのも嬉しいし、学生を教えていて、学生が満足できるようにやってやれる、というのもひとつの喜びだし、卒業して、富士通に入社して、世界の舞台に立てるように育てていくのもやってみたいし、やってみたいことはいろいろとあります。

それから、大学の教員ですので、研究もしていかなきゃいけないですし。できれば、若い人の陸上教室レベルから、トップアスリートレベルまで、追っかけて見ることができるのであれば、その過程をしっかり記録して、科学的に分析することもやってみたい。今は、やりたいことがありすぎて、何もしていない、というのが現状なのですが…。
何もしない、というよりは、実際はいろんなことに少しずつ取り組んでいらっしゃるのではないでしょうか。
まぁ、そうですね。とりあえずは、学生の選手を何とか、ある一定のレベルまでは上げてあげたいなと。たぶん、城西大って誰もしらないんですよ。最近駅伝に出てきたんで、駅伝やってる、というレベルなんで。駅伝も含めた陸上で、「あ、城西大の陸上ね」となれば、本人たちも嬉しいですよね。それぞれのパフォーマンスをあげることももちろんですが、陸上を通じて大学のバリューを高めることも大切だと思います。学生が「城西大で陸上をしていました」と言ったら、「おぉ」となるようにしたいなと思います。

最後に
これまで応援してくださった皆様には、一言では伝えきれないほどの感謝の気持ちでいっぱいです。実質の現役は、2005年の日本選手権までだったので、自分が選手という感覚は消えているのですが、「選手としては10年もやれる環境にあった」というのは、陸上選手の中で1%もいないですよね。そのような環境を与えていただいたことに、ものすごく感謝していますし、それを応援してくださった会社の方々にも、非常に感謝しています。
今後は、富士通に取ってもらえるくらいの選手が育てられればいいと思っています。富士通は日本の陸上を支えているところが大きいと思うんで、僕も支えていけるようになれれば何よりです。今後も富士通とのつながりを持ち続けたいです。




