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アスリートの素顔
田野中 輔は今年9月に29歳となる。富士通陸上競技部一般種目の頼れるキャプテンが、今年の夏、初めて世界規模の大会に出場する。素顔のアスリートVol.8では田野中選手に密着し、これまでの陸上ヒストリーを追った。
「今日から来い!」と誘われて
千葉県出身の田野中は小さい頃からスポーツ万能の少年で、中学生になったらサッカー部に入部しようと心に決めていた。しかし、進学先のサッカー部は県でも指折りの強豪チームで、田野中少年は入部するものの早々と挫折する。特にすることもなくフラフラする日々が始まったが、しばらくしたある日、陸上部の顧問の先生に「今日から来い!」と半ば強制的に誘われ、陸上の世界に足を踏み入れた。
今の田野中は185cmの身長だが、中学1年生のときは152cmと小柄だった。専門種目は長距離で、「足はあんまり速くなかった」そうだ。そのまま長距離を究めるかと思いきや、中学3年時に身長180cmへと急激に身体が大きくなったため、長距離から棒高跳びに転向する。当時の自己ベストは3m20。「たまたま1回のジャンプが良かっただけ」と謙遜するが、県大会への出場も果たしている。
なんでもこなせる器用な選手
高校は「大学まで一貫教育の高校」を志望し、千葉県市原市にある東海大学付属望洋高等学校に進学した。特に陸上へのこだわりはなかったのだが、たまたま陸上部の顧問の先生と話す機会があって入部を決める。最初は、三段跳び、やり投げをしていたが、なんでも器用にこなせる素質を見出されたのか、そのうちに八種競技(100m、400m、1500m、110mハードル、走幅跳、走高跳、砲丸投、やり投)をすることになった。「跳躍練習は厭々だった」と苦笑いするが、「ハードルは面白くて、高校1年生の6月には(ハードル間のインターバルを)最後まで3歩でいけて、すっかりハードルの楽しさにハマりました」と話す。
高校時代は110mハードル、八種競技、4×400mリレー・4×100mリレーの選手として出場することが多く、1996年の高校生活最後の年には110mハードルでインターハイ(全国高等学校陸上競技対校選手権大会)を14秒47の自己ベストで優勝、その2ヵ月後の大会では14秒16とさらに自己ベストを更新し、八種競技で優勝(千葉県内高校記録を樹立)するなど華々しい活躍をしている。
山あり谷ありの学生時代
高校卒業後、田野中は東海大学ではなく筑波大学へ進学した。「これも偶然なのですが、筑波大学のグランドを見学したときに、たまたま谷川(聡)さんが冨田(学)さんの卒業論文用に走っているのを見て、とにかく凄いと思ったんです」。2004年アテネ五輪で13秒39の日本新記録を樹立した谷川は田野中の6歳年上で、当時は筑波大学の院生だった。強烈な印象があったのだろう。『谷川さん』を慕って、田野中は筑波での学園生活をスタートさせた。
とはいえ、学生生活は順風満帆にはいかなかった。1年生のときは原因不明の腰痛に襲われ、半年間は大学のリハビリ施設でトレーニングの“腹筋生活”。2年生のときは関東インカレ(関東学生陸上競技対校選手権大会)を見送り、全日本インカレ(日本学生陸上競技対校選手権大会)に照準を合わせるものの、「学内選考会で自己ベストの14秒03を出しましたが、全日本インカレの準決勝でハムストリングスに“ビリッ”と感じるものがあって、次の週に200mに出たらコーナーのところで完全に“バチン”と音がして、そのまま突っ伏してしまい…」と、なんともパッとしない日々が続く。
やっと怪我のないシーズンが到来したのが、2000年の学生生活最後の年だ。大学3年の冬から4年の春にかけて順調にトレーニングができたのが強みとなり、全日本インカレでは絶好調で予選、準決勝を勝ち進み、決勝では、谷川が1998年に樹立した13秒76(日本学生記録)を超えられなかったものの、13秒77という当時の大会新記録で優勝を飾った。

素晴らしい活躍の年を終えて・・・と締めくくりたいところだが、田野中が今でも残念に思っていることがある。それは『関東インカレ表彰台独占』を実現できなかったことだ。当時の110mハードルは、筑波大学の3選手(神崎 将吾、山田 真利、田野中)が表彰台上位を占める可能性は十分にあった。そして、関東インカレの表彰台は1位、2位を同じ大学が占めることはあっても、3位までを独占することは稀有であり、実現すれば恩師への最高のプレゼントになるはずだった。けれども、結果は田野中が失格したことにより、表彰台の2位までしか独占できなかった。6台目までは順調だったのだが、7台目でダメになったという。
ちなみに、このときの3位は法政大学の内藤真人(現ミズノ)、5位は順天堂大学の八幡賢治(現モンテローザ)で、今夏の世界陸上の日本代表に選出されている。

『谷川さん』って言っているようじゃダメだ。
2001年4月、田野中は富士通へ入社した。その当時、富士通陸上競技部の一般種目では土江寛裕(現城西大コーチ)が最年長で、土江が『神様・仏様』『一緒に合宿できるだけでも、ものすごく勉強になりました』と尊敬する伊東浩司、苅部俊二は既に退部していた。2人を知る最後の世代が土江、2人を知らない最初の世代が田野中だった。
入社一年目の田野中は、「若いときの練習のままで、力を抜くことを知らなかった」ために怪我に泣かされる1年で終わったが、翌年から変化が訪れる。2002年、岩崎利彦(元110mハードル日本記録保持者、世界陸上東京大会、バルセロナオリンピック代表)が短距離チームのコーチに就任したのだ。「岩崎さんは勝つことに関しては厳しくて、若いときの練習方法を変えるきっかけになりました」
今はコーチを離れている岩崎に、田野中へ何を教えたのかを聞いた。すると、「テクニック的にはパワーに頼っているなとは思ったけれども、ハードルの技術はできていたので、テクニック的なことは特に何もいわず、もっぱらメンタル的なところを言った」と返ってきた。たとえば、田野中がいつまでも『谷川さん』と呼ぶことに関して、「憧れや尊敬があっても、谷川はライバルなんだ。なんとかこの人に勝ちたいと思わなきゃダメだ。『谷川さん』って言っている間は、お前は勝てない」と岩崎は手厳しかった。「田野中はやさしくて、人がよいから、怒らせないと闘志がみえないときがある。だからわざと怒らせることもあった」と、コーチなりの苦労も明かした。

2004年アテネ五輪への道
2002年の第15回南部忠平記念陸上競技大会で、田野中は自己ベストを2年ぶりに更新する13秒74の快走を見せた。谷川を破っての価値ある優勝だったが、それから2年間は13秒7台~8台を停滞し続け、やっと打破したのがアテネ五輪選考会の年だった。
2004年6月4日、鳥取で第88回日本陸上競技選手権大会が開催された。その日の朝、「今日は、どうやって勝つんだ?」と岩崎は田野中に聞いた。その答えは到底満足できるものではなく、岩崎は「それじゃあ勝てないな」と一蹴した後、その日は珍しく、試合で勝つための作戦を教えたのだという。それは、予選でライバルに『?』をつけさせる作戦だった。「谷川も内藤も『田野中には絶対に勝てる』と思って試合に臨んでいるはずだから、裏をかけ。2人に『ひょっとして俺たちは田野中には勝てないんじゃないか』と思わせろ」。
作戦は見事にはまった。田野中は自己ベスト更新となる13秒63(アテネ五輪参加標準記録Bの突破と当時の大会新記録樹立)のトップで予選を通過し、決勝ではアテネ五輪参加標準記録A(13秒55)の突破はならなかったものの、13秒65で日本選手権の初優勝を飾った。谷川・内藤という2人の代表候補を抑えたことにより、110mハードルのアテネ五輪代表内定は、一旦白紙に戻った。
さて、田野中がアテネ五輪代表の座を獲得するためには、海外も含めたどこかの大会に出て参加標準記録Aを突破するか、7月11日の第17回南部忠平記念陸上競技大会で優勝するかのどちらかが案が持ち上がった。けれども、前者はリスクが高いため、「記録はどうあれ、もう一度勝つ方法を選ぼう」と決まった。では、どう勝つのか。
南部記念“仮想予選”プロジェクト

南部記念の110mハードルは予選がなく、決勝の一発勝負だ。そこで、『土江式ウォーミングアップ』で仮想予選を行うプロジェクトが考えられた。
土江式ウォーミングアップとは、土江本人曰く「アップをしっかりする。しっかり身体をあたためると筋肉がスタンバイ状態になる。1時間くらい休む。しばらくしたら試合直前の30分くらい前に、アイドリングの状態で走っておく。そうすると身体が完全にスタンバイする」というものだ。土江自身、現役時代に必ずしていたウォーミングアップで、日本選手権後、「ツッチー(土江)がやっていることを、田野中もやってみれば」という話になった。
しかし、ここで問題が一つあった。その仮想予選をどこで行うか。試合が行われる札幌・円山競技場にはサブトラックはない。昨年までマネージャーを務めていた青柳剛と、岩崎は近隣を探した。すると、どうやら円山競技場から車で30~40分のところにある厚別公園陸上競技場のサブトラックが、ハードルは備えていないものの使えそうだということが判明した。プロジェクトは動き出した。簡易の組み立て式ハードル(5台1セット)と、重さのあるスターティングブロックを田野中のために購入して持ち込んだ。
さらに、青柳と岩崎は当日に抜かりがないように、タイムキーパーを持って現地に赴き、決勝までの時間までにどのような行動をして、どういうルートで会場に入るのかを詳細にシミュレーションした。
完璧なリハーサルを経て、試合当日。厚別のサブトラックに簡易ハードルを並べ、スターティングブロックをおき、たった一人の“予選”を行った後、岩崎と田野中は道具を残し、タクシーに乗り込んだ。雨がしとしとと降る中、決勝へ向かう。結果は…13秒77の3位だった。スタート直後、1台目で詰まってしまい、リズムをつかめないままゴールしてしまった。「(土江式ウォーミングアップで)調子が良すぎてしまって、感覚が違ったとかだったような記憶があります・・」と土江談。
試合後、田野中の姿は厚別のサブトラックにあった。おそらく雨足もひどくなってきた時間帯だったろう。置きっぱなしだった道具を一つひとつ片付け、配送の手配を一人でしていた。岩崎も青柳も同行しなかった。それぞれが他にすることがあったのと、こういうときは一人にしておくほうがいいからという配慮からだった。
あれから3年、世界陸上日本代表へ

田野中は「アテネに行けても行けなくても2004年に辞めるはずでした」と引退を考えていたことを明かすが、2001年度加入の陸上部6名の同期の中で、今でも現役を続けているのは田野中だけである。2004年の南部大会でアテネ五輪への切符を逃した悔しさが引退を踏みとどまらせたのだろう。また、2005年2月に結婚したこと、2006年4月に長女が誕生したことも、田野中を大きく支える力となった。
富士通陸上競技部では、2005年4月から一般種目の選手は基本的に母校で練習を行うことになった。前のように一ヵ所集まることもなくなり、岩崎コーチが離れたこともあり、田野中はトレーニングを一人で行うようになった。色々な取り組みの中で、スプリントの『走れる感覚』というものも、次第に掴めるようになってきた。
そして、2006年4月15日、田野中は千葉県記録会にて13秒55の自己新記録で世界陸上参加A標準記録を突破した。「練習はできていましたし、調子も上がっていたので、ある程度の記録は出るだろうなという感覚はあったんですが、ここで出るとは思いませんでした」。しかも、思いがけない好記録の瞬間を、陸上部のスタッフは誰一人として目撃していない。そのことについて、「記録会の数日前から股関節が痛くて、『様子を見て、当日出るかどうか決めます』とスタッフに伝えていたんです。だから、みんな別の手伝いに出ていて」と背景を説明してくれた。
マイペースというか、なんとも不思議なテンポで進む陸上人生だが、なんとも田野中らしいエピソードでもある。
◇
2006年12月のドーハ・アジア大会からの帰国後、2007年の春まで、田野中は土江に走るところを徹底的に見てもらった。「2001年のときから土江さんはスプリントのことを話してくれていたんですが、昔はよく分からなかったんです。それが、最近になって、やっと土江さんの言っていることが理解できるようになりました」。
そのことについて、土江は「僕自身も2001年のときと、2004年のときとでは走り方を変えてきましたし、田野中くんが良くわからなかったというのも、僕自身が手探りだったからだというのもあったと思います」と話す。「ただ、スプリントも2通りあって、たとえば高平(慎士)くんの場合は体型的にストライド(歩幅)を大きく出せますが、僕の場合は小さいコンパスなので、ストライドを大きく出そうと思ったらピッチ(回転数)を高めるしかなくて。でも、そのスプリントの考え方がピッチつながりで、はまったのかなと思います。(ハードル間の)3歩のリズムをあげるというハードルのパフォーマンスに合ったのかもしれません」と分析する。
最近では、土江がいる城西大に田野中が来てドリルをすることもあれば、田野中の合宿に土江が来ることもある。土江は田野中のこれまでを振り返り、「すごくいい流れになっていると思います」と語った。「熟練してくると自分のオリジナルができるようになってきます。僕はワールドクラスにはなれなかったのだけれども、伊東、苅部、為末(大)を見てきて思うのは、自分で考えて自分にバッチリ合ったやり方を作り上げていくのが世界レベルのプロセスなのだなということ。田野中くんは、そのプロセスを踏んできていると思います」と付け加えた。
◇
田野中の今シーズンは、4月29日の織田国際記念で13秒73の2位、5月5日の国際グランプリ大阪で13秒59の3位(日本人トップ)と調子が上がったのを境に、5月19日の東日本実業団では13秒64の3位、6月29日~7月1日の日本陸上競技選手権では13秒77の4位、7月15日の南部陸上でも13秒71の4位と、調子を崩している。7月2日の「第11回IAAF世界陸上競技選手権大阪大会」代表選手の発表で田野中の名前があったので周囲もホッとしたが、一瞬、ヒヤリとさせられたほどだ。田野中自身も、それは承知しており、なかなか前向きなコメントを発せなかったが、7月18日、アジア選手権(ヨルダン・アンマン、大会期日:7月25日~29日)へ旅立つ前のコメントには、「ヨルダンのアジア選手権、大阪での世界陸上と、いずれも『頑張ります』の一言しかありませんが、日本選手権の結果が本当に悪かったので、アジア選手権でしっかり走り、何か一つでも得る走りにしたいと思います。世界陸上については、日本ではベテランと呼ばれても、今までアジア規模の大会から出たことがなく、世界では新人なので、後悔のないように一生懸命頑張ります」と明るさが戻っていた。
そして、「家族にはいつも感謝しています」とも--。

[後記]
旧コーチである岩崎さんに田野中選手へのエールをお願いしたところ「日本記録を作れ!」と第一声。「谷川(聡)といつも話していたのは、『田野中の身体が欲しいよね』ということ。つまり、田野中というのは身体能力がもの凄く高くて、もし野球の世界に入っていたら今頃メジャー級だったかもしれないほど。潜在能力としては、田野中は日本一なんだし、日本記録を作ったことのある2人が太鼓判を押しているんだから、とにかく日本記録を作って欲しい」とありました。そして「世界陸上では作戦を考えて臨め!」とあったのは、言うまでもありません。
一方、新(?)コーチである土江さんからは、田野中選手が世界陸上初出場となったことについて、「日の丸をつけることは、最初はプレッシャーなんですが、気持ちいいことへと変わると結果が出ます。チームをまとめるのは大変なんだけれども、いつもの優しい心にアグレッシブさを足して、自信を持って臨んでほしい」と応援メッセージがありました。 田野中選手の活躍に期待しています!!



