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アスリートの素顔〜第9回 笹野 浩志選手〜

800mの自己記録は日本歴代3位の1分47秒02。2000年、2002年、2003年の日本選手権を制するなど、中距離界の第一人者として活躍する笹野浩志。800mに取り組んで10年--。これまでの陸上人生の歩み、競技への思い、そして北京五輪イヤーとなる来シーズンへの意気込みを語ってもらった。
[記:Tamako Matsuda]

初レースでいきなりの優勝

笹野選手子どもの頃から身体を動かすことが大好きで「毎日、外で遊んでいた」という笹野は、愛知県犬山市で生まれ育った。小学校3年から6年までは、野球少年だった。所属していた少年野球チームが試合でなかなか勝てず、中学では「個人の力でやれる種目がやりたい」と、陸上部に入った。最初に選んだ種目は走幅跳びだった。その後、先輩がやっている姿を見て「自分もやってみたい」と棒高跳びを始める。当時、全盛期だった“鳥人”セルゲイ・ブブカへの憧れもあった。中学時代の記録は3m40。全国大会には届かなかったものの、持ち前の運動能力で順調に記録を伸ばしていった。

高校は愛知県立丹羽高校に入学。棒高跳びのほか、400mハードルなど、違う種目にもチャレンジするようになった。「先生も『いろんな種目をやれ』という感じだったので、長距離の選手が三段跳びに出たりもしていました。僕も、出られるものには何でも出ていましたね(笑)」。棒高跳びでは、県大会で上位に入るなど、力を伸ばしていった。高校時代の自己記録は4m30。地元の試合で、大会記録をつくったこともあるという。

そんな笹野が800mに初めて挑戦したのは、高校2年の秋に行われた県の新人戦だった。「フィールド種目って、グラウンドの端っこでやるから、あまり目立たないんですよね。もともと目立ちたがり屋なので、もっと注目してもらえるのはトラック種目だろう、と。100mや200mじゃ短いし、5000mは長すぎる。中間をとって、800mなら目立つかな、と・・・」。そんな不純(?)な動機ではあったが、笹野はこの種目への適性をいきなり発揮した。レースで800mを走るのは初めてながら、1分55秒台の好記録で優勝してしまったのだ。

笹野は、次のように当時を振り返る。「自分でもびっくりしました(笑)。コレは自分に合った種目かもしれないと思いましたね。たまたま選んだ種目が、うまく当たっちゃったという感じでした(笑)」。まさに運命的ともいえる800mとの出合いだった。インターハイという目標がはっきりと視野に入ってきたことで、笹野は800mに集中して取り組むようになった。

そして翌年、この種目を始めてわずか半年で、山梨インターハイへの出場を果たす。「このときは走るたびにベスト記録が出ていました。インターハイまでに4、5試合しか走っていなかったので、この勢いで、もしかしたら優勝できるんじゃないかなと・・・」。大きな期待を抱いて臨んだインターハイは、準決勝で転倒し、決勝進出はならなかった。無念の結果となったが、この年の日本ジュニアでは6位に入賞。自己記録は1分52秒69まで伸ばした。

2002年日本選手権

コーチからの厳しい言葉

高校卒業後、笹野は1年間の浪人生活を経て立命館大学に進学した。「高校が進学校だったのと、父親が厳しくて『スポーツで大学に行くな』という感じだった。自分でも、大学は陸上で入るのではなく勉強で行こうと思っていました。でも高校時代は陸上ばかりしていたので1年浪人して、立命大に入りました」。大学入学後も陸上部に入ったが、最初の頃は浪人生活からの解放感で「遊んでばかりいた(笑)」(笹野)。

高校時代、800mを始めてわずか半年でインターハイ出場を果たしたことからも窺い知れるように、もともと能力が高かった笹野は、特別な努力をしなくとも、ある程度の結果を残せていた。「僕、練習しなくてもけっこう速くて(笑)、関西の大会では優勝できていたんです。自分でも楽しくやれればいいかなと思って、練習も全然しなかった」。

大学2年の秋、関西学生学年別選手権に出場した笹野は、例によってあまり練習をしない中、1分51秒53の大会記録、自己記録での優勝を果たした。 レース後、笹野はこの年からコーチに就任した杉本昇三氏のもとに、優勝の報告に行った。そこで笹野にかけられた言葉は、思いもよらないものだった。「オレは、お前のこんな記録は認めない。ちゃんと普段から練習に来て、みんなの手本になるのであれば認める。今のようにやりたいことだけやって記録を出しても、オレはそんな記録は認めない」。

笹野は振り返る。「周りのみんなから『おめでとう』と言われて、コーチにも褒めてもらえると思って行ったら、怒られてびっくりしました(笑)。でもコーチは僕が全然練習していない姿を見ていたからだと思います」。笹野が持つ可能性に期待しているからこその、厳しい言葉だった。 杉本コーチの“喝”によって、笹野の負けず嫌いの性分に火がついた。「コーチに自分を認めてもらいたい」--。次の日から、笹野は毎日練習に行った。走る量が増えたことと、何より競技への姿勢が変わったことで、さらに記録が伸びた。

「それまでは楽しければいいかな、と思っていました。関西で活躍できれば嬉しい、と。でも記録が伸びてきたら、欲が出て『日本一になりたい』と思うようになりましたね」。ちょうど、その年の冬季練習で、大塚製薬のチーム合宿に参加する機会があった。その経験によって、笹野の競技への意識がさらに高まった。「陸上選手としてあるべき姿や練習に対する姿勢を教えてもらって、すごく勉強になりました。意識も変わりましたね。当時、中距離で日本のトップレベルだった高橋圭太さんと一緒に練習させてもらって、練習でも互角に走れたことが自信にもつながりました」。

そして翌年、2000年6月、大学3年生だった笹野は、日本選手権800mで初優勝を果たした。その年、自己記録も1分49秒84まで伸ばした。「『アレッ、(日本一に)なっちゃった』という感じでしたね(笑)」。競技に真剣に取り組むようになって、わずか半年での快挙だった。笹野は言う。「杉本コーチのあのときの言葉がなければ、今の自分はないと思います」--。

2007年日本選手権

日本記録への手ごたえ、怪我によるスランプ

大学4年時には東アジア選手権で3位入賞するなど、順調に歩みを進めた。しかし、笹野自身は大学を卒業したら、陸上をやめるつもりでいたという。「実業団の誘いも来ていたのですが、陸上は楽しくやりたい、と思っていた。大学受験と同じで、まずは自分の力で会社の内定をもらいたいと思って、普通に就職活動をしていました」。立命大で国際経営学科に在籍していた笹野は、金融系の企業から内定ももらっていた。

そんな中、大学4年の春先、転機のきっかけとなる出会いがあった。「遠征の時に泊まっていたホテルで、富士通陸上部監督の木内(敏夫)さん(現総監督)と会って話をさせていただく機会があったんです。『もし本気で陸上をやろうと思うなら、連絡してくれ』と。それまで陸上はやめようと思っていたのに、木内さんの一言で、急にやりたくなって・・・」。高校、大学は、陸上競技の強豪校ではなかった。「富士通陸上部は、日本チャンピオンのみならず、五輪や世界選手権代表を何人も輩出している国内屈指の強豪チーム。一度は強いチームでやってみたい」という気持ちもあった。さらに、陸上だけでなく仕事も同じように頑張りたい、という希望を抱いていた笹野にとって、仕事と競技の両方に打ち込める富士通の環境は、魅力的だった。

そして2002年4月、富士通に入社。学生時代を過ごした関西を離れ、上京しての競技生活が始まった。富士通陸上部の同期は、山村貴彦、小島茂之、千葉佳裕……といった錚々たる顔ぶれだった。「チームメイトには五輪や世界選手権を経験している選手がたくさんいた。話をしたり、一緒に練習する中で、すごく刺激を受けた。彼らに少しでも追いつきたい、とガムシャラに練習しましたね。すごいメンバーに囲まれて、環境には本当に恵まれていたと思います」。

入社1年目、2年目と日本選手権800mを制し、自己記録も順調に伸ばした。入社3年目の2004年には、日本歴代3位となる1分47秒02を出し、日本人で過去に2人しか到達していない46秒台も視野に入ってきた。「3年目のシーズンが終わって、冬にカナダに合宿に行ったんです。そこで、1分44秒台の記録を持つカナダの選手とほとんど互角に走ることができた。すごく自信になって、次のシーズンは日本記録(1分46秒18・小野友誠・94年)も出せるんじゃないかと、手ごたえも感じました」。

しかし、これから05年シーズンを迎えようという春先、笹野は左脚の肉離れを起こしてしまう。「雨が降った寒い日にスピード練習をしてしまったんです。すぐに試合があったので、治りきらないまま走り続けていたら、左脚がうまく動かせなくなってしまって…」。この怪我が引き金となり、左脚全体にひずみが生じてしまった。これ以降、笹野の競技生活は怪我との戦いとなった。あまりの苦痛に、その年には引退も考えたという。「そのシーズンは、練習がほとんどできず、試合だけ出ていたという感じでしたね。鍼を打ったり、痛み止めを飲んで、日本選手権(4位)はもう意地で走っていました。あまりに痛くて、9月の全日本実業団で優勝できなかったら、たとえ2位だったとしてももう辞めよう、と思いました」

全日本実業団も、痛み止めを飲んで臨んだ。結果は「優勝」。自分に課した条件をクリアし、「もう一度、頑張ろう」と気持ちを奮い立たせた。笹野は言う。「肉離れをした時にしっかり休めばよかったのに、焦って走ってしまったことで、脚のバランスが崩れてしまったんです。今でも脚がうまく回らなくて、試合では毎回、痛み止めを飲んでいます。今はもう怪我とうまくつき合いながら、その中でベストを尽くそう、と割り切っています」。

2004年日本選手権

北京五輪に向けて

苦しい時期、笹野を支えたのは周囲の友人たちの励ましだった。「大阪世界陸上の開催が決まっていて、大学が関西だったので、友達が『(代表になって)帰って来いよ』と応援してくれていた。大阪には絶対に出たいと思っていました」。怪我とつき合いながらも、06年シーズンには久しぶりの1分47秒台となる1分47秒28を記録した。徐々に調子を取り戻し、大阪世界陸上イヤー前の冬季練習で、笹野は2つの新しい試みを行った。「1つは中国・昆明での高地トレーニング。もう1つは月に1回の『中距離合宿』です。国内の中距離の選手は、環境が恵まれているとはいえない選手も多い。そういう選手たちを富士通の寮に集めて、月1で合同合宿をやろう、と」。こうした取り組みの成果もあり、今シーズンの序盤、5月に行われたゴールデンゲームズで1分47秒9を出すなど、調子は上向きだった。

しかし、6月上旬、中国での台北国際陸上での気温40度、湿度80%という厳しいコンディションの影響で、帰国後、体調を崩してしまう。大阪世界陸上選考がかかった日本選手権に何とか調子を合わせようとしたが、結局、不調のまま当日を迎えてしまった。結果は、4位。大阪の世界陸上代表切符獲得はならなかった。「今年は意気込みすぎたところもあるかもしれないですね。力みもあったと思います」。

大阪世界陸上に行けなければ、今シーズンで選手生活に区切りをつけるつもりだった。笹野は次のように話す。「いつまでもダラダラやるのが嫌なんです。高校なら3年間、大学であれば4年間という期間があるから、頑張れる。でも社会人だと、いつまでというのがないじゃないですか。だったら、自分で区切りを決めて、達成できなかったら、辞めよう、と…」。しかし、ここでも周囲の励ましが支えとなった。「昔からの友達や知り合いから『大阪は残念だったけど、来年は北京五輪があるし、頑張ろうよ』というようなメールをたくさんもらって、すごく励みになった。五輪は、せっかくの4年に1度のチャンス。もう1年やってみようかなという気持ちになりました」。7月28日、ベルギーで行われたナイトオブアスレティックで、笹野は、今後へとつながる1分47秒54の好記録を出した。

「陸上人生の集大成」と位置付ける来シーズンへの思いを訊いた。「オリンピックは昔からずっと憧れていた場所。その憧れの舞台に立ちたい、という思いは強いですね。800mでオリンピックに出られるとしたら60年ぶりくらいなんです。自分が活躍することで、日本全体のレベルも上がればいいなと思います」。そして、「日本記録も早く破りたい」と力強く宣言した。北京五輪の参加標準記録Bは1分47秒00(標準記録Aは1分46秒00)、日本記録は94年に小野友誠(当時・法政大)が樹立した1分46秒18。厚い壁であることには、間違いないが、「自分自身に期待している」という笹野の言葉に、何かやってくれそうな期待感が高まる。

2007年全日本実業団大会

「101%の努力」

2006年群馬RC競技者として活躍する一方、笹野は、システムエンジニアとしての顔も持つ。平日は朝9時に出勤、定時まで仕事を行い、その後に練習することもあるという。「仕事と競技の切り替えはうまくできています。僕は、どちらもできる方が楽しい。仕事をしているときは陸上から離れられるし、陸上をやっているときは仕事から離れられる。どちらも良いリフレッシュになっています。生活にメリハリがあるし、充実していますね」。こうした毎日が送れるのも、周りの理解があってこそ、と笹野は言う。「周りの理解のおかげですね。やりたいようにやらせてもらえるのは本当にありがたい。自分は本当に恵まれているなと思います」

笹野が800mを始めて、10年。その競技観は少しずつ変わってきているようだ。「富士通に入社した当時、木内さんから『お前は早く日本記録を出して、中距離界の発展に貢献して、後進の育成にあたれ。それがお前の使命だ』と言われたんです。前は、そう言われても『まず自分が頑張ればいいだろう』と思っていた。でも最近は、自分だけじゃなく、中距離界全体の底上げが大事だし、それを考えていくことが結果的に自分のためにもなるな、と。自分の今までの経験を後輩たちに託せたら、中距離のレベルも上がっていくと思う。最近になってやっと、木内さんの言葉が分かるようになってきました(笑)。世界との差があるのは事実ですけど、『中距離が低迷している』と言われるのは、すごく悔しい。中距離の第一人者と言われることもあって、自分がこの種目を引っ張っていきたい、何とかしたい、という気持ちは強くなりましたね」。

座右の銘は、「101パーセントの努力」--。「何かの本で読んで、印象に残った言葉です。100%だと現状と変わらない。でも1%でも努力をすれば、可能性は無限大に広がっていくんです。もし1%でも努力を怠って、99%でいいや、と思ってしまったら、0.99×0.99×…と計算していくと、最終的にはゼロに近づいてしまう。だから、その1%を大事にしたい、と思っています」。

「努力することが好き」と笹野は言う。なかなか口にできる言葉ではないが、その話しぶりからは、ストイックさは感じられない。楽しみながら努力しているからこそ、より高いレベルへと可能性が広がっていくのだろう。「来年は、自分にとっても大きな転機になると思う。ここまで自分がやってきたことなので、楽しんでやりたいと思っています」。いろいろな思いを抱きながら、笹野は「陸上人生の集大成」と位置付ける来シーズンへと向かう。

101パーセントの努力