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スペシャルインタビュー目次
いよいよあと1ヶ月に迫った、福岡国際マラソン。マラソンを誰よりも愛し、福岡国際マラソンに強い思いを抱く藤田敦史が、2000年の栄光を再び手にすべく、トレーニングのラストスパートをかける。
この「特別企画:福岡国際マラソンで世界を掴む〜藤田敦史の素顔に迫る〜」では、藤田の意外な幼少期から、福岡国際マラソンに賭ける思いまでを全4回シリーズでお届けします。第2回目は、藤田の名を全国に知らしめた、大学時代のエピソードを語ってもらいました。
インタビューア:長富 怜子

「考えながら練習をして、考えながらレースをする」
駒沢に入って、注目を集める選手になりましたよね。そこで開花した理由は何だと思いますか?
やはりその当時コーチだった大八木監督に出会って、競技に対する意識が変わってからではないでしょうか。中・高校生の時は、漠然と陸上をやっていただけですが、大八木さんに会ってからは、「考えながら練習をして、考えながらレースをしなさい」ということを教えられました。陸上というのも「ただ走るのではなく、頭を使うスポーツだ」ということが、その時、分かりました。
今も当時も6時から朝練習をやるのですが、翌日6時に練習を始めるために、前日をどう過ごすか、考える必要があります。「何時に寝なければいけないのか。何時に寝るためには、何を何時までにやっておかなければいけないのか」という具合に、常に走ることを最優先に考えて、それ以外のことをやるということなんです。
つまり「普段の生活の中でも、常に陸上を意識して、生活しなさいよ」ということだったんだと思います。そういうことを中・高校生の時は考えていませんでした。部活だからやって、終われば普通に遊んで、という感じでした。その辺からして「違うな。そんなに甘いものではないな」と思いました。
考えて練習を…ということですが、記録も細かくつけていらっしゃいますよね。その記録とは?
その日、走った距離、練習のタイム、体重、体調をある程度書いた練習日誌をつけています。それを書くことによって、一日を振り返ることができます。ただ走って、終わりにするのではなく、走ったことの復習というか、「今日のあの練習をもう少しこうすれば、トレーニング的にもっと効果があるのでは?」とか、「あそこを少しやりすぎたから、今日は足が痛くなってしまっているのでは?」というように、振り返る時間が持てます。
また、何年か経ってみて、「あの時どんな練習をしていたかな」と振り返る時に、練習内容を見られるようにということもあります。今ではたくさんの量になっていて、自分の宝物になっています。練習日誌は一年ごとに変えるのですが、書き終えたときに「この分だけ走ってきたんだ」という達成感がありますよね。
「心臓が口から飛び出るんではないかと思ったほど緊張した」
一番思い出に残っている箱根駅伝は?
1区を走った1年生の時ですね。高校2年生の時に、結果を出したと言いましたが、しょせん、福島県内で上位に入るくらいで、とても全国レベルの選手ではありませんでした。そのような選手が箱根に来たので、「私なんかで、本当に通用するのかな」と思いました。1区は、駅伝の流れを作る重要な区間になる。ですから「そんな区間を自分が走れるんだろうか」という不安と、その反面、楽しんでいる自分がいた。自分で自分に期待している。そういう自分がいることにも気付きました。なので、複雑な心境というか、ものすごく緊張しました。
それでも2番という結果でしたよね。
はい。結果的にはよかったのですが、走るまでは、それこそ「心臓が口から飛び出るんではないか」と思うくらい緊張しました。ただ、あれ以来、極度に緊張したことはありません。そういう意味でも思い出深いです。あの大会がきっかけで、今の自分があるといっても過言ではないくらい、自分の中ではイメージの強いものでした。
そして2、3年生では「華の2区」。違ったプレッシャーがあったのではないですか?
2、3年生の時は、上の先輩がそれほど強くなかったので、「俺がやってやる」みたいな気持ちでした。プレッシャーというよりは、「俺がやらなくては」という感じで、前に前に気持ちが行っていたため、緊張はありませんでした。
ただ、大学2年生の時は、アキレス腱が痛くて12月29日まで、一本も走れませんでした。結局、12月30日から1月1日までのわずか3日間だけで、調整をして、臨んだ大会になりました。はっきり言って、「不安しかない」という状況で、「襷さえつなげればいい」という気持ちになっていた。
当然「俺がやってやる」という気持ちもありましたが、一方で「襷を途切れさせるわけにはいかない」という思いもありました。「オーバーペースで行って、途中で止まることだけは、絶対にやってはいけない」と考えていたので、みんなには申し訳なかったのですが、自分のペースでしか行けませんでした。そのため、相手に抜かされても対応できませんでした。1年生の時の不安と期待半々とは違い、不安が100%で臨んだ大会でした。

「新聞の一面は、三代に渡さない!」
最終学年は、4区で走りましたよね。その時の心境を聞かせてください。
この時と、高校3年生の時は似たような状況になりました。もちろん、規模は全く違うのですが、箱根で優勝できるチャンスが来ていた。今までの最高は、3年生の時の2位だったので、「チームに迷惑をかけるわけにはいかない」という気持ちがやはり強かったです。
4年生の時も、12月に入って貧血状態になり、全く走れなくなってしまいました。そのため、最後の1週間だけ仕上げたような状態でした。「箱根では私が絶対2区を走るんだ」という2区に対するこだわりがありましたので、私が「2区をやります」と言ったら、走らせてくれたとは思います。ただ、自分だけの大会だったらいいですが、駅伝という大会で、ほかのメンバーに迷惑をかけるわけにはいかないと思いました。
その当時、私と同じくらい力をつけていた選手が、駒沢にはもう一人いました。その選手に2区を譲って、私が4区を走ることで、優勝できるのであれば、自分のこだわりよりも、チームの優勝というものを取りたいなというのがありました。2区を走れない悔しさはありましたが、「やはり私は4区で自分の走りをするだけだな」という気持ちがありましたので、いざスタートラインに立った時には、全く迷いはなかったです。
ただ、その走れない状態で、区間新を作りましたよね。
はい。自分が一番驚きました。長距離選手は、走り出して、だいたい2、3km行くとその日の調子が分かるのですが、いざ走ってみたら、それが異常によかったんです。とても2週間の即席の練習で作った選手の体だとは、思えない感じでした。
この時は、2、3kmで「今日はいけるな」と思ってからは、あまり記憶がありません。「行くだけ行ってやる」という感じで、終わってみたら、区間新を樹立して、トップに立っていました。走り終えて、しばらくしてから、「何で走れたんだろう?」と自分自身に対して、疑問というか、問いを投げかける感じでした。
区間新を狙って、ラップタイムを手袋に書く選手がいますが、藤田選手も書かれていらっしゃいましたか?
私も実際、区間記録を狙っていました。区間記録を出した方のビデオテープを擦り切れるのではないか、というくらい見たんです。実は、箱根駅伝の距離表示は曖昧なんです。10kmという看板があっても、実際の10kmからはずれていたりするんです。区間記録を作った方の映像を見て、例えば「この橋の上の入り口のところで、何分何秒」というようにポイントで覚えていて、全て手袋に書いて、それを見ながら走ろうと思っていました。
アップの時から、その手袋をはめていて、見ながら行きましたが、気付いたら、「どこの橋で何分何秒で」など、全て頭に入っていました。汗をかいていたこともあり、手袋はいらないと思って、別の手袋で走りました。走った時の記憶はないのですが、レース中の映像を見ると、自分が覚えたポイントで、しっかりと時計を見ているんです。このタイムだったら、どうだというのを計算していたと思います。
順大の三代選手(卒業後は富士通の同期入社となる)に「新聞の1面を持っていかれたくない」と思っていたのは本当ですか?
はい。2区の結果というのが、4区のウォームアップしている時間帯くらいに分かるのですが、ウォームアップ後に、付き添いの選手から「2区で三代さんが区間賞出したそうですよ」ということを聞きました。2区の区間記録は、渡辺康幸さんが作って、「絶対に破られないだろう」という記録だったので、それを破ったと聞いた時は「すごいな」と思いました。
しかし、その次の瞬間から、なぜか分からないのですが、「三代が区間新をしたんだったら、明日の新聞の1面は、三代だな」と思ったんです。「走る前から、区間新を狙っていました」というお話はしましたが、「区間新を出しただけでは、やはり2区の区間記録の方がすごいな。4区の区間記録もすごいものの、そこで区間新を出したくらいでは、三代に1面を持って行かれる」というのが頭をよぎったんです。「1面を飾るには、区間新を出して、トップに立つしかない」と思いました。その時、駒大は順大の後を追いかけて2位で、タイム差が2分30秒くらいあったので、「逆転して、区間新を出したら、俺が1面トップだろう」と思いました。
もちろん、実際走り出したら、そんなことは忘れていたのですが、トップとの2分30秒差を15kmくらいで逆転して、トップで襷を渡して、区間新を出したので、ゴールしてからは、興奮状態というか、「やった!」という感じでしたね。
そういえば、コメントでも言ってらっしゃいましたよね。
はい、そうですね。実は1年から3年生までは、三代と全て同じ区間を走ってきたんです。4年生の時に、初めて違う区間を走ったのですが、3年生までは全て僅差でした。1年生の時は1秒差、2年生の時が一番開いて、10数秒差、そして3年生が6秒差くらいだったと思います。
区間順位は、必ず私が上だったんです。そういうこともあって、マスコミからも「4年生の時に、いよいよ最終対決」と書かれていたのですが、結果的に分かれてしまい、直接対決にはなりませんでした。ただ、終わってみたら、2人とも区間記録を樹立して、2区、4区でそれぞれ区間賞を取れました。その2人が同じ富士通に行ったのは、面白いなと思いました。
「2人揃って富士通に入社する」というニュースを聞いた時は驚きました。
そうなんですよ。「ライバル対決」みたいな形で書かれていて、「あいつらは仲が悪い」という噂がどんどん広がっていきました。実際、仲が悪いわけではないのに、会う人、会う人に「三代と仲悪いんだろう?」と聞かれて、「いや、仲が悪くないんですけど…」と答えていました。
仲は悪くありませんが、もちろんライバルとしては認めていましたので、4年生の時も「同じ2区で勝負したいな」というのは、当然ありました。ただ、先ほども言いましたが、チームを優先するために、私は4区に回ったので、それはそれでよかったと思います。あの時の三代の走りを帰ってからビデオで見ましたが、おそらく私が2区を走っていても、負けたんじゃないかと考えていますね。
それくらいお2人ともいい走りをしていらっしゃった。
そうですね。逆に言うと、三代の走りがあったから、私の区間新も生まれてきたのかな、というのはありますね。死ぬ気になって走りましたから。


