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スペシャルインタビュー目次
藤田選手 福岡国際マラソン関連 参考資料
「特別企画:福岡国際マラソンで世界を掴む〜藤田敦史の素顔に迫る〜」に合わせて、過去の福岡国際マラソンを振り返る、インタビューおよびレポートを掲載します。
2000年12月 「第54回福岡国際マラソン大会」
陸上部 藤田敦史選手が日本最高記録で優勝!!

2000年12月3日、「第54回福岡国際マラソン大会」が、福岡市の平和台陸上競技場をスタート・ゴールとする42.195kmで行われ、当社陸上部の藤田敦史選手が日本最高記録となる2時間6分51秒で優勝を果たしました。本大会は、来年夏にカナダ・エドモントンで開催される「世界陸上大会」の代表選考会を兼ねていたため、藤田選手の代表入りが確定的となりました。
[レース経過]
第54回福岡国際マラソンは、福岡市の平和台陸上競技場をスタート・ゴールとする42.195kmで参加119名が師走の博多路を激走いたしました。今回の招待選手は、シドニー五輪優勝者のゲザハン・アベラ(エチオピア)選手を始め、アトランタ銀メダルの李鳳柱(韓国)選手や世界的に有名な脂ののってる選手が出場いたしました。当社からは、昨年の世界陸上(セビリア)において6位の成績を収めた藤田敦史選手ら3名が出場いたしました。
気温16度(11時現在)と師走の博多ではかなりの暑さとなりウォーミングアップ中の選手を悩ませる状況でした。午後0時5分、参加119名が一斉にスタート。グランドを約4周して博多路へ飛び出していきました。レースは、5kmを15分0秒〜10秒の速いペースで進み、大会記録(2時間7分28秒、ジョサイヤ・チュグワネ選手=南アフリカ)も更新するレース展開となりました。マラソン3回目、「ラスト10km地点で余裕があれば勝負したい」とレース前に語っていた藤田選手は、李選手やダコスタ選手らとともにトップ集団の中でレース後半へ。その思惑どおりに藤田選手は、31km付近で外国招待選手を揺さぶり始め、勝負所のラスト7km地点で前へ。レース後記者団に「スタミナの心配が無いくらい余裕があった」とコメントしていたように、一気に加速!
40km地点では犬伏選手(大塚製薬)の日本記録(2時間6分57秒、'99年ベルリンマラソン)も視野に入れ、残り2.195kmを驚異的な速さ(6分20秒台)でカバーして、45回大会の森田選手(日産自動車)以来の日本人優勝をなし遂げただけでなく、従来の日本最高記録を6秒あまり更新する「日本最高記録」まで樹立しました。
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2005年11月 藤田敦史選手、福岡国際マラソン直前インタビュー

本番まで一ヶ月。今の調整状況は?
3月のびわ湖マラソンが終わった時点で福岡に出ることを決め準備してきました。本格的なマラソン練習を開始したのは8月に入ってからです。ここまで自分が思い描いていた練習の95%はできていますので残りの5%を本番までに仕上げていくという状況です。
久し振りに「満を持して」という感じですね。2000年の優勝以降、怪我などで苦しみましたが、これを乗り越えてきた要因は何だったのですか?
正直、怪我をするまでは人の話を全く聞かなかったんです。マラソンに関しては自分が一番正しいと思っていましたし、そんな中、日本記録を樹立したものですから、有頂天になっていたんですね。それで故障が続いたときに、何かを変えないといけないと考え、人の話を聞くことにしました。人の考えは千差万別で参考になることはあるはず。全てを鵜呑みにするのではなく、自分にとって有益な考えは取り入れていこうと意識を変えました。
そうすると今までの自分の考えがあまりに狭い次元のものであるということに気づきました。故障が無くなったのはそれからです。この時期に、人間というのは殻を破るときには、何かを変えないといけないということを学びました。
モチベーションはどのように保ってきたのですか?
周りからはいろんなことを言われました。日本記録を出して、走れなくなったということは、後は引退しかないとか。でも、僕自身は一度もそんなことを考えませんでした。逆に絶対にこのままでは終われないと。誰かに勝ちたいとかではなく、自分自身を克服したいと強く思っていましたし、自分に勝つことが最大の目標だと常に自分自身に言い聞かせていました。
その気持ちを持続できたのは?
逃げ出しそうになったことがあったのは事実です。しかし、練習は一日も休まず続けました。やはり自分に負けたくないという気持ちが上回っていたのだと思います。他の選手にない僕の武器は強い気持ちを持ち続けるという「精神的強さ」だと思っています。
藤田選手にとってマラソンとは?
これしかないと思えるもの。大げさかもしれませんが自分の全てを懸けても惜しくない存在です。これを無くしたら、藤田が藤田ではなくなるとも思っています。自分を素直に表現できる舞台がマラソンなんです。
5年ぶりの福岡は自身にとっていろんな意味を持つ大会となりますね。
本当に久しぶりにしっかりと準備をして臨めるマラソンになるので、逆に真価の問われるものになると思います。また、ここで勝つことができれば、自分が思い描くレールに乗ることができるので、是が非でも勝ちたいと思っています。
福岡を復活の場として選んだのは?
2000年に勝っているという相性の面もありますが、あの大都会を走るのが好きなんです。僕は田舎育ちなので、田園風景の中を走っていると落ち着いてしまうんです。逆に都会だと、試合に来たんだ!という具合にアドレナリンが出てくるんですよ。
本番ではどのような走りを?
自分から勝負を仕掛ける攻めの走りをしたいと思っています。ポイントは30km地点。そこまで余力を残しておいて一気に勝負を仕掛けたいですね。
最後に、藤田選手の夢は?
オリンピックに出場することです。08年の北京に向け立ち止まるわけにはいかないと思っています。また、ここまでサポートをしていただいた方のためにも、マラソンで結果を出して恩返しをしたいと思っています。
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2005年12月 福岡国際マラソン 藤田選手、復活への手応えを掴む3位入賞!

2005年12月4日、「第59回福岡国際マラソン大会」が、福岡市の平和台陸上競技場をスタート・ゴールとする42.195kmのコースで行われました。この大会に陸上部の藤田敦史選手が出場し、日本人最高位となる3位入賞を果たしました。藤田選手は、2000年の同大会で当時の日本最高記録となる2時間6分51秒で優勝し、一躍日本男子マラソン界のホープとして注目を集めました。しかし、その後は度重なる怪我に見舞われ、満足な走りができないでいました。
[レース経過]
レースは、悪天候に加え、序盤からの不安定なペースに多くの選手が苦しむ中、日本人選手ではただ一人、終盤までトップ集団でレースを展開。しかし、32kmの折り返し地点を過ぎたところで、優勝したバラノフスキー選手のスパートに対応できず遅れると、共に遅れた03年世界選手権銅メダリストのフリオ・レイ選手との2番手争いに。ここで、身上である粘りの走りを見せ激しいデッドヒートを繰り広げましたが、ゴール直前の競技場前でかわされ3位でゴール。優勝こそならなかったものの、最後まで勝負に徹し、00年の優勝時以来となる2時間10分を切る好成績(2時間9分48秒)を残しました。レース後、藤田選手は「優勝を狙い、そのための準備をしてきただけに悔しい」とコメント。自身が納得できる「復活」には至らなかったものの、次に繋がる確かな手応えを掴んだレースとなりました。


